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シンガポール政府のマッチングサービスは「安定結婚アルゴリズム」で相手を選ぶ その仕組みと限界

目次

シンガポールでFirstDateの試験運用が始まった

2026年9月末、シンガポール政府テクノロジー庁(GovTech)が、マッチングサービス「FirstDate」の試験運用を始めました。対象は21〜35歳の独身の公務員で、本人確認には国のデジタルIDであるSingpassを使います。今回の募集は10月5日23時59分に締め切られます。

きっかけは、GovTech職員の間で出た「候補が多いほど、合う相手は見つけやすくなるのか」という疑問だったと、公式サイトのFAQは説明しています。職員がアイデアを試す年次ハッカソン「{build}」で形になり、いまは公務員の間で試すパイロットとして動いています。

構想が表に出たのは2026年4月です。GovTechは4月13日、CrowdTaskというプラットフォームで一般向けのアンケートを配り、35歳未満の独身者向けの「Firstdate」案を示しました。マッチした2人の初回デートの食事を提供する案も入っていましたが、現在の公式サイトにその記載はありません。当時GovTechは、まだ初期の検討段階で何も決まっていないと説明していたと報じられています。

SNSや一部の報道では、FirstDateが「ノーベル賞を取ったアルゴリズムで相手を選ぶアプリ」として紹介されています。公式サイトがマッチングに使うと明記しているのは、Gale–Shapley(ゲール=シャプレー)の安定結婚アルゴリズム、いわゆる安定マッチングです。

FirstDateはどうやって相手を紹介するのか

利用者は最初にアンケートに答え、あとはサイクルごとに届く1人の相手について、つながるかどうかを決めていきます。

  1. 興味、習慣、価値観、相手への希望を尋ねるアンケートに答える
  2. サイクルごとに1人の相手が届く。相性スコア、相手の人柄の説明、パーソナルノート(personal note)付き
  3. 双方にSMSが届き、3日(72時間)以内に相手とつながりたいかを決める
  4. 両方が「はい」と答えた場合だけ、連絡先が共有される
  5. マッチのたびにSMSで短いアンケートが届き、連絡先を交換したか、実際に会ったかなどを答える。合わなかった場合は、次のサイクルで新しい相手が紹介される

プロフィールが表示されるのは、マッチした相手だけです。データについて公式FAQは、アンケートの回答も含めて政府のデータセキュリティ基準で扱うと書いています。法律で求められる場合や認められる場合を除いて、収益化も第三者への提供もしないとし、アカウントの停止とデータ削除の依頼もいつでもできるとしています。

プライバシーステートメントのほうには、もう少し広い条件があります。一つは、サービスに関連して、他の政府機関や委託先の事業者と必要なデータを共有できるとする条項です。もう一つは、サービス上のコンテンツの削除・修正の依頼に、GovTechの判断で応じない権利を残す条項です。どちらもFAQには書かれていません。

報道やSNSでは「アプリ」と呼ばれていますが、公式サイトにアプリストアでの配布の記載はありません。アンケートの画面例にはFormSG(シンガポール政府のフォーム作成サービス)の表示があり、通知はSMSで届く説明です。

Gale–Shapley「安定マッチング」とは

Gale–Shapleyは、数学者のDavid GaleとLloyd Shapleyが1962年の論文で示した方法です。参加者を「申込側」と「受け側」の二つのグループに分け、各参加者が相手側の全員に希望の順位を付けます。受け側は届いた申込をその場で確定せず、いちばん順位の高いものを手元に置いておく。この「保留」があるので、日本語では受入保留方式とも呼ばれます。

申込と保留を繰り返す

  • 申込側は、まだ断られていない相手のうち、最も順位の高い人に申し込む
  • 受け側は、新しく届いた申込と保留中の申込を比べ、最も順位の高い1人を保留して残りを断る
  • 断られた人は次の希望へ申し込む。まだ申し込める相手が残っているのに相手の決まっていない申込側がいなくなった時点で終わる

A・B・Cが申込側、X・Y・Zが受け側の例です。

参加者希望順位(左ほど上)
A(申込側)X → Y → Z
B(申込側)X → Z → Y
C(申込側)Y → X → Z
X(受け側)B → A → C
Y(受け側)A → C → B
Z(受け側)A → B → C
ラウンド申込受け側の判断
1AとBがXへ、CがYへXはAよりBが上なのでBを保留し、Aを断る。YはCを保留
2AがYへYはCよりAが上なので、Aに乗り換えてCを断る
3CがXへXはCよりBが上なので、Cを断る
4CがZへZはCを保留。全員の申込が保留され、終了

結果はA–Y、B–X、C–Zです。2ラウンド目のYは、いったん保留したCを、より順位の高いAが来た時点で手放しています。保留は確定ではないので、受け側は最後まで乗り換えられます。

「安定」とはどういう状態か

今の相手よりもお互いを選ぶ2人組が1組も残っていない組み合わせを、「安定」と呼びます。

さきほどの例で、Cの希望順位ではZよりYとXが上です。けれどYはCより今の相手Aを、XはCより今の相手Bを上にしているので、Cと組み直す相手はいません。AもYよりXを望んでいますが、XはAよりBを選びます。どの2人組を取っても双方が組み直したいという状況にはならないので、この結果は安定です。

参加者が二つのグループに分かれ、各参加者が相手側を順位づけできるなら、安定な組み合わせは必ず存在し、この手順で見つかります。GaleとShapleyが証明した内容で、ノーベル賞の発表文も、この方法が常に安定なマッチングを保証すると説明しています。前提が成り立たない場合は、最後の「まだ分かっていないこと」で扱います。

「ノーベル賞アルゴリズム」はどこまで本当か

ノーベル賞との関係

2012年のノーベル経済学賞を受けたのは、Alvin RothとLloyd Shapleyの2人です。授賞理由は、安定な配分の理論とマーケットデザインの実践。経済学賞の正式名称は「アルフレッド・ノーベル記念スウェーデン国立銀行経済学賞」です。

発表文によると、Rothは研修医と病院、生徒と学校、臓器提供者と患者のマッチング制度の設計・再設計に関わりました。発表文は、これらの改革をGale–Shapleyアルゴリズムと、現実の条件に合わせた修正に基づくものと説明しています。

論文を共著したGaleは、受賞者に入っていません。Galeは2008年3月に亡くなっていて、ノーベル財団の規程は、1974年以降、受賞発表の前に亡くなった人には賞を授与しないと定めています。「アルゴリズムがノーベル賞を取った」は正確な言い方ではありません。発表文が評価しているのは、このアルゴリズムを中核とする理論と、それを実際の制度に生かした仕事です。

研修医マッチングとの関係

研修医と病院の組み合わせに使われているという説明は、米国については「改良版」という条件付きで当たっています。

米国の研修医マッチング(NRMP)は、研修医側が申し込む方式のアルゴリズムを使っていると説明しています。1995年にNRMPの理事会から依頼を受けたRothらが設計したもので、受入保留方式に修正が加えられています。夫婦で近くの病院を希望する応募など、単純なモデルに収まらない条件を扱うためです。

日本の医師臨床研修マッチングは、2004年度の臨床研修必修化に合わせて導入されました。研修希望者と研修病院の双方の希望をもとに、一定のアルゴリズムに従ってコンピュータが組み合わせを決める仕組みです。研究者の報告でも、安定結婚問題が日本の研修医の病院配属に使われていると説明されています。ただ、日本の方式でどちらが申込側か、どんな改良が入っているかは、今回参照した資料では確認できませんでした。

「最高の相手」を選ぶわけではない

安定な組み合わせは1つとは限りません。2人ずつの小さな例です。

参加者希望順位
AX → Y
BY → X
XB → A
YA → B

A・Bが申込側なら、AはXに、BはYに申し込み、どちらも断られずにA–X、B–Yで終わります。A・Bは第1希望、X・Yは第2希望の相手です。

X・Yを申込側にすると、結果はX–B、Y–Aに変わり、今度はX・Yが第1希望、A・Bが第2希望の相手と組みます。どちらの組み合わせも安定です。

参加者が二つのグループに分かれる単純なモデルでは、申込側は安定な組み合わせのうち最も順位の高い相手と、受け側は最も順位の低い相手と組むことが知られています。SNSにあった「受け側は最悪の相手になる」は、「安定な組み合わせの中では」という条件が抜けた言い方です。希望の最下位を押し付けられる、という意味ではありません。

実際の差の大きさは市場によって変わります。NRMPでは、主に病院側が申し込む形だった旧方式と、新しく設計された研修医側提案の方式を、過去5回分(1987年と1993〜1996年)のマッチングのデータで比べた研究があります。結果が変わる研修医は、各回とも0.1%未満でした。FirstDateでどの程度になるかは、今回確認した資料では参加者数が示されていないため判断できません。

なお、安定性の定義に入っているのは「組み直したい2人組が残らない」ことだけで、参加者全体の満足度の合計は含まれていません。

「見逃しがなくなる」わけでもない

SNSでは「お互いに合うはずの2人が紹介されないことは、設計上起きない」という説明も広がりました。安定な組み合わせに、互いに今の相手より相手同士を選ぶ2人組が残らないのは確かです。ただ、その判定に使われるのは、システムに入力された希望順位です。

FirstDateはアンケートの回答から相手への希望を読み取るとしていますが、回答をどう希望順位に変換しているかは、公式サイトでは説明されていません。アンケートで拾えなかった好みは、安定性の判定に入りようがありません。

単純なモデルでは、申込側にとって、本当の希望をそのまま出すのが最善の戦略だと証明されています。受け側のほうは、希望を偽ることで、より順位の高い相手と組める場合があります。ノーベル賞の発表文も、この種の方法について、参加者が結果を操作しようとする動機を「抑える」と書いていて、「なくす」とは書いていません。

Singpassで本人確認はできても、アンケートの回答が正直かどうかまでは分かりません。

アルゴリズムが決めるのは「誰を紹介するか」までです。72時間以内に双方が「はい」と答えれば連絡先が共有され、会うかどうかはそこから先の本人たちの判断。公式FAQも、書類上の相性が化学反応や交際を保証するわけではなく、その先は本人次第だと断っています。安定性の保証が及ぶのは、紹介の段階に限られます。

FirstDateについてまだ分かっていないこと

今回確認した公式サイトと報道では、次の点を確認できませんでした。

  • どちらが申込側か。 どちらに有利な結果になるかは、ここで決まります。
  • 二つのグループに分けられない希望の扱い。 同性間の組み合わせのように、全員が全員を順位づけする場合は「安定ルームメイト問題」という別の問題になり、安定な組み合わせが存在しないことがあります。GaleとShapleyの1962年の論文も、この問題を取り上げています。FirstDateがこの場合をどう扱うのかは説明されていません。
  • 相性スコアの計算方法。 スコアから希望順位を作る方法も、アンケートの質問数も、公式サイトでは示されていません。
  • 運用の細部。 1サイクルの長さ、過去に紹介した相手を除外するかどうか、参加者数は、今回確認した資料では分かりません。
  • 公務員以外への公開予定。 シンガポールのメディアがGovTechに詳細と一般公開の予定を問い合わせていると報じられていますが、10月1日時点で公式サイトに記載はありません。

よくある疑問

日本から使えますか?

日本の一般の利用者は使えません。現在のパイロットの対象は、シンガポールの21〜35歳の独身の公務員で、Singpassでの本人確認が必要です。

アプリをインストールする必要はありますか?

公式サイトにアプリ配布の記載はありません。Webのアンケートに回答し、その後の連絡はSMSで届く説明になっています。

料金はかかりますか?

公式サイトに料金の記載はありません。

安定マッチングで選ばれるのは、いちばん相性のいい相手ですか?

そうとは限りません。安定性が約束するのは、互いに今の相手より相手同士を選ぶ2人組が残らないことです。どちらが申込側かで結果が変わり、受け側は安定な組み合わせの中で最も順位の低い相手と組むことになります。

希望は正直に答えたほうが得ですか?

単純なモデルでは、申込側は正直に答えるのが最善であることが証明されています。受け側は、理論上は希望を偽って得をする場合があります。FirstDateでどちらが申込側なのかは、公式サイトでは示されていません。

参考・参照元

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この記事を書いた人

AI・IT・テクノロジーの話題を中心に、気になったニュースや研究を一次資料までたどって調べています。

新しい技術を「すごい」「怖い」で終わらせず、何が起きているのか、なぜ注目されているのか、どこまで分かっているのかを、できるだけ前提から整理して書いています。

AI、サイバーセキュリティ、プログラミング、ハードウェア、そして技術が社会に与える影響が主なテーマです。
専門的な話でも、詳しい人だけのものにしないこと。分からないことは分からないままにせず、元の資料まで確認すること。
そんな姿勢で「柩のノート」を更新しています。

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